ルッキズム/Lookismという言葉を最近よく聞きます
SNSを見ても「この世はルッキズム」「ルッキズムつらい」などの言葉が溢れています。
ルッキズムという概念と戦う人、抗う人が多いですが、今回は「戦わない人」であるAnemone編集室のメーテルがその現象を紐解きました。
ルッキズムとは、から、ルッキズムが起こる背景から見る分析、解説と対策法をご紹介いたします。
この記事を読むと耳が痛い部分もあるとは思いますが、ルッキズムで悩んでいる方の一助となれることでしょう
目次
ルッキズムとは
「ルッキズム」とは、外見や身体的特徴に基づいて他者を差別する思想や社会現象を意味します。この言葉は、1970年代にアメリカのメディアによって作られた造語で、外見・容姿を意味する「look」と、主義をあらわす「ism」を組み合わせてできたものです。日本では「外見至上主義」と訳されることが多く、最近になってよく使われるようになりました。
出典: ルッキズムとは?注目されている理由や差別をなくすために必要な支援|PLAN INTERNATIONAL
解説にもあるようにルッキズムは「外見至上主義」、または「見た目至上主義」というものです。
「イケメン」「かわいい」「綺麗」な人こそ一番優れているという考え方で、そうではない自分はダメなんだ、どうしてこの世はそんな世の中なのか、と嘆く声も聞こえてきます。
ですが本当に外見は最も大切なものなのでしょうか?
よくある「中身」と「外見」というもの、その解釈の方法について考えてゆきます。
「外見」はどういうものを指すのか?
ここで言われている「外見」という概念が色々と混ざり合っているといつも思います。
おそらく、その「外見」の内訳は
- 顔の美醜
- 服装のおしゃれさ
- 体型(細さ、胸の大きさ、男性なら身長)
この3つかと思われます
そして「人は見た目で判断する」という価値観になっていき、そこに入れない人たちはそれを嘆く、という流れになりますが、この「人は見た目で判断する」という考え方は人間にはもちろんありますし、その考えは間違いでもありません。
「外見」は与えられたものだから変えようがない!となり、そうなると「自分は可愛くない/かっこよくないからダメなんだ」という自責や落ち込み、卑屈さとなっていきますよね。
そう思っていると「この人は自分をダメと思っているのではないか」「自分が可愛くない/かっこよくないのがダメだから好かれないんだ」と思うようになって、余計に自信を失っていきます。
そのうち、それが怒りとなり、言い訳となってしまう、そういう人をよく見かけます。
ですが、果たして「外見」に対する認識は合っているのでしょうか?
そして本当に「外見」は変えられないのでしょうか?
なによりも皆さんが漠然と使っている「外見」という言葉は、「内面」と別物と思ってはいませんか?
「外見」は「中身」の自己紹介であり「入口」
「中身を見て欲しい!」と言う人は多いです
よくわかるのですが、この人口の多さの中で一人一人中身を見ることはとても大変です。
先入観を取っ払って、好みの外見ではなくとも話せばわかる、ということでしょうが、「この人と話したい」とリアルの世界で思うのは、やはり「外見」の要素が入ってきます。
では、その「求められる外見」というのは皆同じなのでしょうか?
皆が皆、女優やイケメン俳優、アイドルの外見を求めていて、自分もなりたいのか?
多くの人が自分を求める=モテるようになったとして、自分はどうなりたいのか?
そこまで考えている人はどれくらいいるでしょうか?
「外見」のポテンシャル=可愛さかっこよさの元々の能力=顔が可愛い、かっこいい
これらが通用するのは30歳くらいまでです。
元々顔の造形が可愛い人、かっこいい人が「そのまま」でモテるのは30歳くらいまでなのです。
そして「外見」と「中身」を別物と思っている人がとても多いですが、その二つは無関係でもなく、同じでもありません。
相関関係にあるのです
つまり、「外見」と「中身」はどちらも影響し合っている
「外見」は「中身」が反映されて、「中身」は「外見」に反映される
人の性格、ポリシー、考え方は少なからず「外見」に出現するのです
例えばキラキラ女子は、スタイルも良くて顔の造形も黄金比(=可愛い/かっこいい)です。
ですが彼女らは自分がルッキズムであり、人はルッキズムであるということを理解し、自分のスタイルも自分への投資も惜しみません。
そのために収入を上げ、ルッキズムの男性に気に入られるように行動します。
こういう女性を嫌う女性は多いですが、彼女らはとても努力していますし、その清々しさで、さらに好かれることもあります
外見は中身の自己紹介であり「中身」への「入口」なのです。
ですからその人の大切にしているもの、考え方、ポリシー、欲しいもの、それらが「外見」に反映されているに過ぎないのです。
変えられるものと変えられないものを認識する
変えられないものを変えることは不可能ですが、変えられるものはいくらでも可能です
そこに発生する「努力」を、「モテ」のために費やせるかどうか、の話なのです。
そのために変えられるものとそうでないものをよく考える必要があります。
◆変えられないもの
- 元々の顔の造形(整形手術である程度は可能)
- 身長
◆変えられるもの
- 肌
- 表情
- 服装
- 言葉遣い
- 教養/知識
- 考え方/価値観
- 素直さ
これらを振り分けた時、30歳以上の男女が求めているものは、変えられるものの方に多いと思われます。
いくら見た目が好みで相手に好かれたとしても価値観が合わない、なんてことはよくありますし、変えられるものの8割は中身の問題で、それらを変えていくと不思議なことに外見も変化していきます。
また人の生活パターンも外見に現れやすく、お酒(糖質)が好きな人はお腹がぽっこりしやすい、歩かない人は体に締まりがない、太っている人は自己管理が難しいなど、自分の外見は自分の自己紹介でもあるのです。
これは反ルッキズムの人には耳が痛い話かと思いますが、人は認識しだいで自分をいくらでも変えることができるということをお伝えしたいです
そして、30歳くらいまで何もしなくてもモテてきた人も、その後は中身も大きく関わってくるようになり、自分の外見を保つためにスキンケアしたり運動したり、必要なら教養を備えたり、それを怠るとモテなくなります。
むしろ自分の見た目に自信がなく頑張って自己研鑽してきた人がモテ始めるのがこの時期です。
なので、モテない人がモテるようになることは可能で、反ルッキズムの人が「見た目も大切だな」と思うこともモテの一歩であると考えます
ルッキズムを嘆く人はまた、ルッキズムである
これは厳しい現実かもしれませんが、その通りと思います
人を外見でジャッジするな、と言うその言葉の根っこには、その人自身がルッキズムでもあるという自己紹介にもなってしまっています。
人を外見で判断しない人はいないです。
好みや嫌悪だけではなく「こういう人なんだろうな」と思ったりすることもジャッジであり、人間という生き物はそれをするものなのです。
先入観も持つし、ジャッジもする、それが人間であり、本能です。
ですから、ルッキズムという広義になった時に、人は皆、ルッキズムであるとも言えるのです
「人を外見でジャッジするな」と言う反ルッキズムの人は、本当に外見で判断しないのでしょうか?
そんなことはありませんよね、人はどうしても外見で判断するものです。
それが悪いことなのか、良いことなのかということは置いておいて、人間は皆、そういう生き物なのです。
なので自分の努力が足らない分は見ないことにして「みんな可愛い子/イケメンが好きなんだ、自分は中身は良いのに」と嘆くことは無駄であり、自分の株を余計に下げます。
当たり前ですが皆が皆、芸能人のようなルックスは持っていません
自分から見ても「なんでこの人そんなに可愛くない/かっこよくないのにモテるんだろう?」と思う人も多いと思います
そういう人はきっと、ルッキズムという風潮を嘆くことすらしないでしょう
彼らはそれよりも自己研鑽に時間をかけ、その「中身」が「外見」に反映されているに過ぎないのかもしれません
自分がルッキズムであることを認め、受け入れられるように努力せよ
それ以外に方法はありません
誰もが「そのままの自分」をそのまま愛してもらえたらいいなと思うものですが、知り合う段階で「そのままの自分」でいて好かれることは難しいです。
外見、服装や身なりは自己プロデュースで自分の名刺でもあり、ぱっと見で「こういう人なのかな」「興味があるな」と思わせることができます。
自分がどういう人に好かれたいか、ということを考え、「そういう人はこういう服装や言葉遣いがいいだろう」と導き出して努力し、教養が必要なら学び、体型が必要なら絞る。
自分がどういう人に好かれたいかと考えることは、自己理解のひとつであり、それがあるからこそルッキズムに立ち向かえるとも言えます。
努力せずに手に入れたものはそれなりのもので、努力して手に入れたものには価値が宿る、だから大切にできるのでは、と思います。
「異性相手にそこまでしたくない」これはよく聞く意見です。
そこまでしたくないならしなくていいですが、そうして自分のプライドを優先する先に、おそらく求める異性からモテることはありません。
プライドは大切なものですが、ありすぎると自分を阻害します。
人に外見を褒められた、貶された
生きているとそんなこともありますし、もちろん傷つきます。
そしてどんどん「人は見た目しか見ない!」という思い込みが出来上がっていきます。
ですが、「自分を貶したその人に、自分は愛されたいのか?」と考えることも必要で、自分が求めていない人に貶されたとしたら「好みが違うんだな」と受け取り方を切り替えることも必要です。
求めた人に貶されたら、「自分の魅力をわかってないな」と思ってもいいと思います。
不特定多数にモテることに、実は意味はありません。
自分が求めた人に求められることが、真のモテであると考えています。
不特定多数に誉められモテたところで、その時の気分が一時的に上がるのみです
一番大切なのは、必要な言葉、不要な言葉を見極め、嘆きつつも自分が求める人に好かれるために努力すること
自分が思う自分の外見に近づいた時、近づいている時、不意にモテるようになることはあるあるです
その時、モテた理由や価値があることは、その時点の外見ではなく、そこまで自分を磨けるまでの努力の源である中身の美しさなのかもしれません
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